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金崎内科医院

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院内報2022年8月1日号を掲載しました

7月は怒涛の如く過ぎ去りました。まさに嵐の真っ只中にいた気がします。「第6波」が終わるころに新型コロナの波は天変地異と同じ、台風のようなものと思うようにしていました。台風は必ずやってきます。そして必ず過ぎ去っていきます。台風が来るのは誰のせいでもありません。台風の間はひたすら被害が最小限になるように行動しますし、事前に準備もします。台風の間には外に出かけないようにします。でも今回の新型コロナの波は大きいです。土砂降りの暴風雨でした。それにまだ予想がつかない要素が多いので不安になりますね。毎回同じ波にはなっていません(ここがやはりインフルエンザとは違うところですね)。そして今の波はまだ続いています。せめて波と波の間の休息はしっかり欲しいです。私はもう3年くらい旅行にも行っていません。そういえば新幹線もずっと乗っていないです。今年の夏こそは、と計画していたのですが・・・。

<かぜ情報>

7月は発熱で受診される方が多かったのですが、この場合、新型コロナの「発熱検査外来」として対応することになっています。これは国や県の指導に従ってのものでもありここ2年間ずっとそうだったのですが、時間的空間的な隔離を確保した上で、医療者の防護措置、毎回の環境消毒をしての診察になりますのでお一人の診察に要する時間がどうしても長くなってしまいます。さらに定期受診される方の診療や今も続いている新型コロナワクチンの接種と特定検診(この2つは町からの委託です)も毎日続けております。そのために発熱や風邪症状での受診のご要望にキャパシティーオーバーでお応えしきれないことが7月は毎日のようにおきてしましまいした。また定期受診やワクチン接種で来院された皆さまにも長時間お待たせしてしまうことが多くなってしましました。申し訳ありませんでした。
7月前半は小児の発熱者がとても多かったです。ヘルパンギーナや手足口病のケースも相当数含まれておりました。7月後半からは小児の比率が減った印象があります。成人の受診者がその分増えました。また家族全員での受診というケースも多かったです。これが新型コロナの強い感染力を象徴しているように感じます。個人的には換気が重要だと感じます。それぞれの家庭の事情もあると思いますが、接触を減らし空間的距離をとるのはある程度までしかできないとしても換気に努めていただきたいです。暑い日が続くのでエアコンを使いながらとなり、省エネとは程遠いことになってしまうかもしれませんが。

<夏季休診のお知らせ>

8月11日(木)から15日(月)は休診とさせていただきます。

<院長の日記>

8月は先の大戦に思いを馳せる時です。2つの原爆投下の追悼と終戦の記念式典が行われます。甲子園でも試合が中断され黙とうをささげます。戦争は始めるのは簡単ですが終わらせるのはとても難しいということは案外知られていないように感じます。ウクライナの戦争もなかなか終わりそうにありません。特に近代の戦争は一方が圧倒的に有利に勝つという場合以外にはなかなか終わらないのは歴史が証明しています。2つの世界大戦もそうですが、強大なアメリカでさえ、ベトナム、アフガニスタン、イラクのいずれの紛争もなかなか終わりにできませんでした。
太平洋戦争は8月15日が終戦の日とされています。もう日本は戦うのは不可能で降伏するしかなかった、あたりまえのような降伏だったと思われている日本人が多いかもしれません。しかし実際はそうではありませんでした。まさに奇跡的な終戦だったのです。つまり、もっと戦争が続いてしまっていた可能性は十分にあったのです。この終戦を成し遂げた功労者の一人が時の首相鈴木貫太郎です。昭和20年の初めの時点で客観的にみれば日本は敗戦は決定的でした。海軍はほぼ壊滅状態で、本土が無防備に空襲を受けるようになっていました。それでも戦争を続けるという特に陸軍を中心とした狂気的ともいえる主張(「一億玉砕」など)を抑えるのは困難でした。ナショナリズムに火がついた状態では反戦論は裏切り行為とみなされます。そんな状況で首相に就任したのが鈴木貫太郎です。鈴木は海軍大将で天皇の侍従長も務めたこともあり、天皇の信任が特に厚い人でした。もう終戦しかないと考えていた昭和天皇が鈴木に託したのです。4月に首相に就任したとき鈴木はすでに77歳の高齢でした。初めは固辞したとも伝えられています。戦争を止められない理由は陸軍の強硬姿勢以外にもいくつかありました。一つはソ連が仲介してくれるという可能性、そしてもう一つが国体護持(天皇制の存続)でした。終戦に少しでも有利になるように局地の戦闘で成果を上げてソ連に仲介してもらうということでしばらく時間を稼ぐしかありませんでした。連合国側で早い時期からソ連の対日参戦は決められておりましたので全くの無駄な努力でした。鈴木自身は胸の内では降伏しかないと思っていましたが、陸軍を欺くかのような二枚舌を使っていました。8月になり2つの原爆とソ連参戦となるに及んで鈴木が切ったカードが天皇の「ご聖断」でした。天皇の存在は誠に不可思議なもので国家の主権者と憲法で記載されていましたが、実際には自ら重大決定を行うものではありませんでした。天皇に決めてもらうのは禁じ手たったのですが鈴木は最後にこれを使います。天皇が自分の責任においてとにかく戦争を終わらせたいと思っているのを鈴木は良く知っていました。侍従長も務めたこともあり話をしなくてもお互いの胸の内がよくわかる関係だったようです。8月10日と14日の会議でいわば陸軍にとっては騙し討ちのような「ご聖断」でようやくポツダム宣言受託が決まりました。このときの陸軍大臣は阿南惟幾。本当は事前に薄々気付いていたかもしれません。本気で反対なら陸軍大臣を止めるといって内閣総辞職に持っていくことはできたはずですが結局は決定に従います。阿南自体も陸軍の過激派をなんとかぎりぎりまで油断させていたのです。阿南はこの直後に割腹自殺をして陸軍大臣としての彼なりの責務を果たしました。ポツダム宣言受託のあの有名な天皇の玉音放送が流れるまでもいろいろありました。陸軍の過激将校のクーデター未遂です。この未遂も奇跡的でした。危うく録音盤を奪われるところでしたし、皇居も占拠されかけました。玉音放送の後、天皇は鈴木を「本当によくやってくれた」とねぎらったそうです。鈴木が終戦工作を成功できた大きな理由が、彼が自らの命を惜しまない勇気をもっていたことかもしれません。終戦の張本人としていつでも命を狙われる可能性はありました。当時、首相はおろか天皇ですら命の危険があったとされています。昭和初期までは実際に何人もの首相が暗殺されています。軍部と対立すると本当に殺されかねない風潮でした。実は鈴木は侍従長を務めていたときに2・26事件で襲撃され瀕死の重傷を負っています。一時心肺停止にもなったようです。とどめを刺そうとした陸軍将校に向かって現場にいた妻がせめてそれたけは勘弁してくれと懇願したと言われています。殺されかけたこともあるし老齢なのでもう命は惜しくないとの思いだったのでしょうか。実際に8月15日未明に鈴木の私邸を陸軍の過激将校が襲いますが直前に察知して危うく難を逃れています。私邸は焼き払われてしまいました。日本の終戦についてはいろいろな見方があると思います。なぜか「敗戦記念日」とは言いません。もっと早く終戦にもっていけたら沖縄戦は回避され原爆も落とされずに済んだのにという意見もありますし、もっと終戦が遅れていたらドイツのように分割されてしまった可能性も指摘されます。個人的には後世でも評価されにくい終戦工作に敢えて挑んだ人達にもっと思いを馳せて欲しいと思っています。

(今月は糖尿病コーナーはお休みします)