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金崎内科医院

〒362-0812 埼玉県北足立郡伊奈町内宿台3-40

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院内報2021年2月1日号を掲載しました

毎年書いていますが冬は夏より長く感じます。寒がりの私と暑がりの人とでどちらがつらいかを議論した場合(不幸アピールで嫌な感じですが)、私の勝です。少なくとも12月から2月までの3か月は真冬です。ちなみに真夏は7月半ば(梅雨明け)から9月半ばくらいのせいぜい2か月でしょう。ほらごらんなさい。2月は真冬の最後の月です。新型コロナウイルスはやはりもしかした冬の気候により感染しやすいのでしょうか、それはわかりませんが、寒さとともにあとちょっと頑張ろうという気持ちで2月を過ごしたいです。

<かぜ情報>

やはりかぜ症状で受診される方が少ない状態は続いています。インフルエンザもゼロですが、例年流行するノロウイルスなどによるウイルス性胃腸炎も圧倒的に少ない状態が続いています。

<新型コロナウイルスの診療について>

11月から当院では埼玉県から「診療・検査機関」の指定を受けています。埼玉県独自のシステムで、埼玉県と契約を結び新型コロナウイルスのPCR検査や抗原検査を保険診療で実施できる(法律上の問題でややこしいのですが)ことになっています。検査自体の患者様の費用負担はありません。県内ではすでに1000以上の医療機関が指定を受け、伊奈町でも多くの医療機関が同様の指定を受けています。埼玉県のホームページにリストが公表されています。保険診療ですので、感染が疑われるような症状や状況のみで実施できます。例えば陰性の証明や不安解消のためなどの理由では対象になりません。PCR検査は唾液を採取していただき、外部の検査機関に依頼(委託)をします。結果判明には1日半ほどかかります。多くの場合は2日後の朝に判明します。休日をはさむとさらにかかることがあります。結果は当院から電話にてお伝えします。唾液の採取は車でお越しの場合はご自身の車内で採取していただきます。専用の試験管に貯めていただき、一定量が採取できたら当院のスタッフが車まで受け取りに伺います。PCR検査の他に、鼻咽頭粘液による抗原検査も可能です。インフルエンザの検査とほぼ同じ方法です。約15分で結果が出ますので迅速な判定が可能です。ただし、何らかの症状が出てから2日経過していないと偽陰性(本当は感染しているのに検査では陰性の判定)となる可能性が高いとされています。また、鼻のかなり奥まで綿棒のようなものを入れるため、くしゃみが誘発されやすく、いったんくしゃみが出てしまうと飛沫が拡散するリスクが高いため検査の場所の徹底した換気やスタッフの完全な防護が必要となります。以上のような検査をする場合も含めて発熱などの症状がある場合には事前に電話にて診療の予約をお願いしております。時間は当院で指定させいただき、院内には他の患者さまとは異なる専用の診察室にご案内いたします。院内への入口や動線も分けられています。多くの患者様からもし新型コロナウイルス感染が疑われるような状況になったときに自分はどうすればいいのでしょうか、との質問をいただきます。少なくともかかりつけの患者様については何とか当院で初期対応をいたします(申し訳ありませんが診療時間外は難しいです)。

<糖尿病コーナー>

糖尿病のコントロールに食欲への対処は重要です。といっても食欲は生きていくうえでの大事な本能ともいえるものですし、強い空腹感は強い食事への欲求となり理性でコントロールするのはなかなか難しいでしょう。しかし、どういう状況で食欲が強くなりやすいかを理解し、また、強い食欲を我慢するのではなくうまく対処する方法を身につけることは大切です。食欲に影響するのはもちろん空腹の時です。血糖が下がっていれば当然強い食事への欲求となりますが、厄介なことに糖尿病の患者さんで血糖が低くなくてもその前の食事からある程度時間が経てば空腹感を覚えます。これには胃に食べものがない状態が影響しているのです。「お腹がすく」というくらいですから胃腸のそのときの状態にもよるのです。また、ストレスでも空腹感が増強されます。さらに睡眠や食事の時間のリズムが乱れても過剰な空腹感となります。夜勤などをすると食欲も強くなってしまうのです。これにはストレスホルモン(副腎皮質ステロイドホルモン)の分泌の異常が関係していると言われています。生活のリズムの維持の必要性を繰り返し申し上げてきましたが、このことを理解しておくことは大切だと思います。

<院長の日記>

新型コロナウイルス感染の拡大が日本で始まって1年が経ちました。「慣れ」「with コロナ」という言葉が聞かれます。さすがに1年も立てば私達の受け止め方も変わってくるでしょう。さて、個人的には昨年4月の緊急事態宣言前後頃から時々奇妙な感覚におそわれることがありました。「これはもしかしたら夢ではないか?」という感覚です。ほんの一瞬ですし、そんな感覚に陥る自分を心配するほどではなかったのですが、今回改めてこの感覚について考えてみました。人は生活しているうえで多くの「あたりまえ」の中で生きています。本当は「あたりまえ」ではないのかしれませんが、そうしないと毎日不安で押しつぶされてしまうでしょう。そもそも「あたりまえ」を本当のこと、完全に確実のことかどうかを追及しても結局は絶対的に確かなものには行きつきません。科学をもってしてもです。科学者の中にはこのような言説に違和感を覚える人もいるかもしれませんが、真摯な科学者はわかっていると思います。科学の話は大袈裟でした。「あたりまえ」は生活の中で息づいています。明日はまたやってくるでしょうし、食事をしなければいつもの特有の感覚(「空腹」などと私達表現するもの)を覚えるでしょうし、椅子に足をぶつければつらい感覚(「痛い」と私達が表現するもの)にみまわれます。この「あたりまえ」はどのようにして形成されたのかといえば、ひとつにそれはこれまでの経験からです。そして経験を多く重ねるほどそれが確かになってきます。私たちは多くの場合、わざわざ毎回意図的に確かめようとは思わず、その都度無自覚的に確かめられているのです。この無意識に毎回更新される確かめの中にいないと私達は大きな不安定さのなかに投げ込まれてしまいます。例え、「あれ?」と思うようなことに遭遇してもこれまでの経験と自ら「意図的に」確かめる行為によって結局は「あたりまえ」に収まることがほとんどです。しかし、あまりにもあたりまえとはかけ離れたものに遭遇し、それがこれまでの確かめのレベルを超えている場合、自分やその世界を疑わざると得なくなります。例えば、突然最愛の人を失ってしまったときの感覚。自分は本当に生きているのか?あの人がいないこの世界はいつもと違う世界ではないか?しばらく経って振り返ってもあの時のおかしな間隔は思い出せない、なんだったのか・・・?新型コロナの感染拡大が始まってから多くのあたりまえがなくなりました。人となるべく会ってはいけない、町から人が消えた、自分も他人もみんなマスクをしている、いつまでこの状態が続くのか誰も説明できない、いつも最終的には専門家が解説してくれるはずなのに今回は誰もできない。このような突然の世界のあたりまえの停止に遭遇すると前述のように自分の立ち位置が実はあたりまえではなかったという感覚から自分の存在や世界の存在を疑わざるを得なくなるというのは人の自然な習性とでも呼ぶべきもので、それが私は「夢の中にいる」かのような奇妙な感覚の由来ではなかったかと考えられます。ある象徴的な経験をしました。仕事が終わって近くのショッピングモールに本を買いに行きました。着いてみると大きな駐車場にほとんど車が見当たりません。建物の中に入ってみても人影がほとんどみられません。1階の食料品店や外食店は閉まっているのは知っていたのですが、2階の本屋にいっても客は私しかいません。直後に張り紙で緊急事態宣言中はショッピングモール全体の閉店時間が前倒しとなったと書いてあり、もうすでにその5分前だったのです。買いたい本は決まっていたのですぐに見つけて会計を済ませて帰りました。とても大きな建物に人がいないこと、しかも既に館内は暗くなりかけていたことがなおさら演出効果となりとにかく不気味でした。後で思い返してもいまだに「夢の中」に近い感覚です。別に当たり前に安住せず、災害などの有事に備えましょう、などと教訓めいたことを言うのが今回の目的ではありません。「あたりまえ」の感覚の不思議さをもっと哲学的に思考してみただけのことです。あへて付け加えるなら当たり前の中に安住していることの方が実は夢の中のようで(「ボーっとしている」)、それが通用しなくなった状況こそが本当に現実に目を見開かされている(「ハッとする」)状況なのかもしれません。