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金崎内科医院

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院内報2023年8月1日号を掲載しました

7月号では夏は冬より短いので寒がりの私にとってはずるい、などと書きました(書いてしまいました)。ところが夏になってみたらあまりにも過酷な暑さが続いてしまいました。7月初旬の日曜日にあるイベントの手伝いに参加し駐車場の誘導係をしました。まだ7月後半のような猛暑というほどではありませんでした.が炎天下でつらかったです。事前に熱中症予防の準備をしていましたが、途中からこれはヤバいかもと思い始め、時々日陰に行ったり動きをセーブしたりするなど手を抜いてなんとか無事に終わりました。体調を悪くしたら元も子もないないので暑い日は無理せず手を抜いてしまいましょう。

<かぜ情報>

発熱や風邪症状で受診する方が多い状態が続いています。一時は小児が多かったのですが7月終わり頃からやや減ってきた印象です。夏休みに入った影響でしょうか。新型コロナウイルス感染と診断される人数は極めて緩徐ながら増えています。

<伊奈町特定検診の開始について>

6月から毎年恒例の伊奈町の特定検診が始まっています。伊奈町在住の国民健康保険証か後期高齢者証をお持ちの方が対象です(オプション検査となっている胸部レントゲンや大腸がん検診:便潜血などは社会保険に加入の方でも受けられます)。11月末まで期間が長めですので余裕をもった計画で予約できるとは思いますが毎年秋以降は予約がとりにくくなる傾向にありますので早めの受診をおすすめします。

<夏季休診のお知らせ>

8月10日(木)~8月15日(火)は夏季休診とさせていただきます。

<発熱や風邪症状で受診される際のお願い>

発熱や、熱がなくてもノドの痛みが出現したばかりなどの場合は11:30か16:00の発熱外来(プレハブ診療室)で診療いたします。事前の電話による予約をお願いいたします。

<糖尿病コーナー>

前号で糖尿病の症状を急性期のものと慢性期のものと分けて説明させていただきました。急性期症状はインスリンの絶対的な不足によって起きるもので、尿が多量となり、ノドが渇き、体重が急激に減少、すぐに治療しないと昏睡、場合によっては死に至るというものです。日本で最も古く糖尿病の症状を記録されたのは藤原道長かもしれません。同時代の藤原実資が書いた「小右記」という文書に晩年の藤原道長の症状が記されています。常に水を飲んでいる、痩せてきた、目が見えない、背中の腫物が治らない、など糖尿病の典型的な症状です。ここには急性期の症状と慢性期の症状が混在しています。「目が見えない」は慢性合併症の一つである網膜症と考えられます。「背中の腫物が治らない」も慢性的高血糖による免疫機能の低下を示唆します。「常に水を飲む」と「痩せてきた」急性合併症ですね。つまり長い年月にわたりインスリンの相対的な不足による高血糖が持続し、最後はインスリンの絶対的な不足に至り急性合併症になったということだと思います。

<院長の日記>

今年も終戦の8月がやってきました。毎年あの大戦について書くようになってしまいましたが今年はある海戦について書いてみたいと思います。史上最大の海戦、そして日本海軍最後の海戦と言われているレイテ沖海戦です。かつてはフィリピン沖海戦とも言われていました。ミッドウェー海戦の方が有名で映画にもなっていますが、日本海軍の事実上の終焉となったこの海戦の方はあまり知られていないと思います。なにせとても複雑、実のところ幾つかの海戦が4日の間に繰り広げられた一連の過程の総称なのです。1944(昭和19)年10月。当時の日本はもはや劣性は決定的でした。海軍においても航空戦力のほとんど失ってしまっていました。一方、アメリカ軍は南太平洋の日本軍の占領地域を次々に攻め落とし、東南アジアまで迫りフィリピンも手中にしつつありました。日本はフィリピンを完全に失うと南方から本土への補給ができなくなるばかりか、アメリカ軍の本土への本格的な上陸作戦も許してしまうことになります。そこで大本営は前代未聞の作戦を計画します。「捷一号作戦」と名付けた作戦はフィリピンのレイテ湾にあるアメリカ軍の補給基地と陸戦部隊に艦隊特攻を敢行しこれを撃滅しようというものでした。艦隊特攻なんて聞いたこともありません。そもそも艦隊(水上部隊)は艦隊同士の海戦を想定して作られたものです。それなのに艦隊が捨て身となって敵の基地を叩きに行くというところがあまりにも奇抜であり、もはや海戦に望みを失ったゆえの窮余の策です。この海戦の過程を理解するには4つの艦隊、つまり指揮官の名前で呼ばれる栗田艦隊、小沢艦隊、西村艦隊、志摩艦隊の動きを追うことがもっともわかりやすいと思います。栗田艦隊が主力部隊です。戦艦大和と武蔵も擁します。まずフィリピンの西南方向から栗田、西村、小沢の順に北上します。レイテ湾はフィリピンの東の太平洋側に開いており、これを叩くには多くの島の間(海峡)を横切って太平洋側に出なければいけませんが太平洋側にはアメリカの艦隊が展開しています。栗田艦隊は北上しレイテ島とサマール島(レイテ湾はレイテ島とサマール島の間にある)の北を通って太平洋に出てから南下しレイテ湾を目指します。一方、西村艦隊と志摩艦隊は順にレイテ島の南の海峡を抜けて太平洋に出て北上しレイテ湾を目指すということになりました。レイテ湾に北と南から迫るのです。残りの小沢艦隊は遙か北の台湾から南下し、フィリピンの東に展開するアメリカ軍を北に惹きつけその間に他の艦隊のレイテ湾への突入を容易にする、というもので完全な囮(おとり)部隊です。小沢艦隊には当時まだ残っていた大型空母が2隻含まれますがほとんど艦載機を積まず、いわば空っぽの空母でした。さて実際の展開です。栗田艦隊は北上開始途中でいきなり潜水艦攻撃を受け、栗田少将坐乗の巡洋艦愛宕が航行不能となり(栗田は大和に移動)、さらに航空部隊の攻撃も受け武蔵が沈没するなど戦力の約1/3を失ってしまいます(シブヤン海海戦)。レイテ島北の海峡を通過せずにいったん引き返し、態勢を立て直してからまた予定通りの航行に戻りました。一方西村艦隊は予定通り、あるいは早すぎるくらいのタイミングで海峡に突入し、出口のところでアメリカ艦隊につかまり、ほぼ全滅してしまいました(スリガオ海峡海戦)。西村中将も戦死しています。後に続いた志摩艦隊も同様の攻撃を受けますが、突入は敢行せずに途中で引き返しました。そもそも狭い海峡を通過するのはとても危険なことでした。一方、アメリカ艦隊は栗田艦隊が完全に引き返したと判断したうえに南下してきた小沢艦隊に気づいたため、レイテ沖を後にして北上しました。そこに栗田艦隊が現れました。レイテ沖に残っていたアメリカの護衛空母部隊はパニックに陥ります。栗田艦隊からの攻撃を受けて数隻は沈没してしまいますが煙幕などを利用してなんとか脱出しました(サマール島沖海戦)。さて、栗田艦隊にとってはもうレイテ湾は目の前です。これから突撃して目的達成、というところで何と急遽反転して引き返してしまいます。有名な「栗田ターン」です。なぜ突入せず引き返したのか?については戦後も栗田中将は多くは語りませんでした。一説にはレイテ湾に多くのアメリカ軍が待ち構えていると思った、とか、小沢艦隊と戦っている(エンガノ岬海戦)はずのアメリカ艦隊がすぐ近くにいると勘違いした、などとも言われています。無線通信がうまく行えなかったことが作戦を最後まで完遂できなかった要因の一つとも言われています。もし西村艦隊が栗田艦隊の遅れに気づいていたら海峡通過を強行しなかったかもしれませんし、もし栗田艦隊が小沢艦隊とアメリカの主力艦隊が交戦していると確信できていたら、レイテ湾に突入していたかもしれません。アメリカ軍の方でも連携行動は十分とはいえず、レイテ湾付近に残っていた護衛空母隊は本隊が小沢艦隊に引き付けられて北上していることを把握できていませんでした。そして最後の「もし」です。もし、栗田艦隊がレイテ湾に突入し目的を達成できたとしてその後の戦況は変わったでしょうか?やはり歴然たる戦力の差は埋めようもなく日本の敗戦は変わらなかったでしょう。この海戦でも多くの犠牲者が出ました。また、初めて航空機による特攻が行われたとされています。とにかく日本海軍の事実上の滅亡となったつらい記憶ですが風化させずに語りついでいって欲しいものです。尚、詳しく知りたい方には半藤一利の書いた「レイテ沖海戦」がお勧めです。文庫本で500ページ近くあります。